大判例

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東京地方裁判所 昭和38年(合わ)322号 判決

本籍 福岡県柳川市大字西蒲池九八〇番地の二

住居 東京都新宿区西大久保一丁目四三六番地 中央プロダクシヨン内

無職

今村紀男

昭和一七年二月二〇日生

本籍 埼玉県深谷市大字上野台二、四六〇番地の一

住居 東京都新宿区西大久保一丁目四三六番地 中央プロダクシヨン内

事務員 平井征次

昭和一九年九月一八日生

本籍 福岡県福岡市中堅町一二番地

住居 東京都新宿区東大久保二丁目二四八番地 河鹿荘

事務員 加来哲也

昭和一三年一月二六日生

右今村紀男及び平井征次に対する殺人、加来哲也に対する犯人蔵匿各被告事件につき、当裁判所は、検察官武並公良出席のうえ審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

被告人今村紀男を懲役七年に、

被告人平井征次を懲役三年以上五年以下に、

被告人加来哲也を懲役一年に

それぞれ処する。

未決勾留日数中被告人今村紀男及び同平井征次に対しては各二八〇日を、被告人加来哲也に対しては五〇日を、それぞれ右本刑に算入する。

被告人今村紀男から押収してある飛出しナイフ一丁(昭和三九年押第三一号の一)を没収する。

訴訟費用は全部被告人今村紀男及び同平井征次の連帯負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人今村紀男は、昭和三三年本籍地の福岡県立伝習館高校を中退したのち両親と共に農業に従事していたが、同三六年七月福岡家庭裁判所久留米支部で暴行等の非行により中等少年院送致の処分をうけ福岡中等少年院に入院したこともあり、翌三七年秋頃には上京して四ヵ月程運送店員として働き、一度両親のもとに戻つたものの、同三八年一月末頃再び上京して、前記少年院時代の友人の世話でいわゆる愚連隊の組織である東声会に入会し、その新宿支部に所属し、同会幹部渡辺福三郎の主宰する中央プロダクシヨンの事務所のある肩書住居に止宿するに至つたもの、被告人平井征次は、昭和三六年本籍地の埼玉県立行田高校を一年で中退したのち鉄筋見習工として働いていたが、同三八年四月頃東京家庭裁判所八王子支部で暴力行為等処罰ニ関スル法律違反の非行により保護観察処分をうけ、東京都八王子市の保護施設に入つたこともあつて、同年八月頃右施設で知り合つた者の世話により東声会新宿支部に所属するに至り、同会幹部渡辺福三郎の主宰する興行関係の仕事を目的とする中央プロダクシヨンの事務員として働き、同プロダクシヨンの事務所のある肩書住居に止宿していたもの、又、被告人加来哲也は、昭和三一年本籍地福岡市の大壕高校を卒業、東京歯科大学予科に入学したが、まもなく同校を中退し、その頃より東声会の前身である内外興行に所属し、渡辺福三郎の舎弟となつていたところ、その後福岡市に戻り、同地で傷害、麻薬取締法違反などの罪を重ねて、福岡刑務所でその刑の執行をうけ、出所後の同三七年秋頃、再び上京し、東声会新宿支部に所属し、渡辺福三郎が前記中央プロダクシヨンを主宰していたので、その事務員として勤務するに至つたものである。そして、被告人加来哲也は、兄貴分として、前記中央プロダクシヨン事務所に止宿する被告人今村紀男及び同平井征次の面倒をみてやり、右両名を連れて歩いていたので、被告人ら三名は、加来を中心に東声会新宿支部内部でも特に親しい間柄であったものである。

ところで、被告人ら三名が所属する東声会は、かねてから博徒港会住吉一家と対立関係にあつたが、昭和三八年九月四日午後一時頃、東京都新宿区歌舞伎町一五番地バー「松」内において、東声会会員で同会蒲田支部に所属する小倉某と港会会員原田こと金鐘信との間に喧嘩が起り、港会の幹部であり代貸の地位にあつた井上竜吉こと鄭竜得がこれを仲裁してその場をおさめたものの、東声会の会員の中には鄭が片手落な仲裁の仕方をしたとしてこれに不満をいだくものがあり、一時は同会新宿支部の幹部中島貞法など十余名が翌五日午前零時頃から歌舞伎町界隈において鄭を追い求める等不穏な状況にあったものであるが、

第一、被告人今村紀男及び同平井征次は、同都新宿区西大久保にある東声会新宿支部の事務所で、前記喧嘩があつたことを聞き知つたのち歌舞伎町に赴き、同五日午前三時頃から加来哲也と共に、同町一〇番地朝鮮料理店「歌舞伎苑」において飲食中、前記井上こと鄭竜得(大正一四年四月一日生)が港会の若い衆数名を連れて同店に来て飲食するのをみかけ、同人がかねて東声会と対立関係にある港会の幹部であつて、前記バー「松」での喧嘩を片手落な仕方で仲裁したものであることを想起し、飲酒の勢いも加わつて憤慨し、加来哲也と共謀のうえ、右鄭に対し、被告人今村所携の飛出しナイフ等を用いて、右鄭の身体に危害を加えようと企て、鄭らより先に同店を出て、同店前路上で加来と共に鄭を待ちうけ、同日午前四時すぎ頃、同店前路上において、同店内より出てきた鄭に対し、いきなりその背後から、被告人今村が所携の飛出しナイフ(昭和三九年押第三一号の一)でその背部左側を一回、被告人平井又は加来においてくり小刀(同号の二)で同背部中央を一回、それぞれ突き刺し、鄭に大腸損傷等の傷害を負わせ、よつて、同人をして同月八日午後九時一〇分頃、同都同区百人町二丁目二〇〇番地春山外科医院において、右背部左端部刺傷による大腸損傷に基因する穿孔性化膿性腹膜炎のため死亡するに至らしめ、

第二、被告人加来哲也は、今村紀男及び平井征次が判示第一の如く鄭竜得に対し傷害を負わせた犯人であつて、罰金以上の刑に該る罪を犯した者であることを知りながら、右両名を同月五日午後九時頃から同月九日午後七時頃までの間、同都中央区銀座西八丁目一番地「ホテル日航」の三階三〇一号室に宿泊滞在させ、もつて犯人を蔵匿し

たものである。

(証拠の標目)≪省略≫

(検察官及び被告人、弁護人等の主張に対する判断)

本件殺人被告事件につき、検察官は、被告人今村及び同平井には、被害者鄭殺害の犯意があつたものであり、又、被告人平井は、鄭殺害の単なる共謀者ではなく、更に進んでその実行行為者でもあつた旨主張し、更に、犯行の動機として、鄭が前記「歌舞伎苑」内において加来に対しその兄貴分等の悪口をいい、「歌舞伎苑」前路上においては、今村及び平井を嘲笑したので、被告人両名がこれら鄭の態度に憤慨したこと、をもあげている。弁護人及び被告人今村、同平井等は、鄭殺害の犯意、共謀及び被告人平井の実行行為を否定し、被告人平井については無罪、同今村については傷害致死にすぎない旨主張している。そこで、当裁判所が被告人今村及び同平井の罪責につき、判示第一の如く認定した理由を説明することによつて、右各主張に対する判断を示し、なお、右被告人両名につき自首が成立するか否かについても争いがあり、又判示第二の被告人加来の罪責についても、説明の要があるので、これらの点に関する当裁判所の判断、説明を付加することとする。(註)「本件」、「事件」とは、判示第一の鄭に対する刺傷事件を指すものとし、引用供述中に「井上」、「鄭竜得」とあるは全て「鄭」と呼称することとし、更に実現の便宜のため左の要領により略記する。

今村・9・17・員……被告人今村紀男の司法警察員に対する昭和三八年九月一七日付供述調書

同人・検……同人の検察官に対する供述調書

安田・員謄……安田博の司法警察員に対する供述調書謄本

今村・六公供……被告人今村紀男の当公判廷(第六回)における供述

四公調・同人供……第四回公判調書中同人の供述記載

10・10・回……警視庁科学検査所長作成の昭和三八年一〇月一〇日付「鑑定結果回答について」と題する書面

第一鑑定書……斎藤銀次郎外一名作成の鑑定書

第二鑑定書……斎藤銀次郎作成の鑑定書

(一)  事件前後の被告人等の言動及び犯行の態様

(1) 事件前日の夜起きたバー「松」での喧嘩のことから東声会会員が鄭を追い求めていた事実並びに被告人今村、同平井及び相被告人加来らが「歌舞伎苑」に入るまでの行動

バー「松」の管理人福島久栄の供述(同人・員謄)、「松」付近に屋台店を出していた佐藤精一郎供述(同人・員謄)、当夜歌舞伎町界隈をぶらついていた港会会員青地清の供述(同人・員)、同じく安田博の共述(同人・検)を総合すると、本件事件発生の前日である昭和三八年九月四日午後一一時頃東京都新宿区歌舞町一五番地バー「松」において、東声会会員小倉某と港会会員原田こと金鐘信との間に電話使用の順序のことから喧嘩が起り、取つ組み合いになつたが、鄭が仲裁に入つてこれをとりおさめたこと、この鄭の仲裁が片手落であるとしてこれに不満をもつた東声会会員十数名の一団(同会新宿支部幹部中島を含む)が翌五日午前零時頃から「松」をたずね、「鄭はどこえいつた。」、「事務所に乗り込んじやおう。何もめじやない。」等と叫びながら鄭を追い求めていたことが認められる。

ところで、被告人今村、同平井及び相被告人加来らの当夜「歌舞伎苑」に入つて飲食するに至るまでの行動、特に同人らが鄭を追求するグループに加わつていたかどうかについては証拠上極めて明らかとはいえない点もあるが、当夜「加来と一緒に料亭『勇駒』に行き、ここで会の事務所より来た水越から『蒲田支部の若い者が怪我をした。』との報告をうけた。事務所でその小倉と会い、更に『松』の方へ出ていつてこの喧嘩の仲に入つたのが鄭であることを知つた。そして同人を探しているうちに東声会の蒲田支部の者、新宿支部の吉田や同支部の若い者が歌舞伎町の喫茶店『その』に集り、更に港会の金森や鄭、その若い衆も『その』に入つていつて話し合つているのをみた。」旨の東声会新宿支部に所属する野田敬夫の供述(同人・員)、「『その』の前には東声会の者が二十名位いた。そのうち港会の金森、鄭なども『その』に入つていくので自分も入つたが、内には東声会会員がいて、前に博多で一緒に遊んだことのある加来という男もみえた。絶対まちがいないとはいえないが、たしか左側の方に坐つていたと思う。」旨の安田博の供述(同人・検)によれば、加来は、少くともバー「松」での喧嘩と、そのことから東声会の者が鄭を追い求めていたことを知つていたし、その結果行われた「その」での話し合いには自らも参加していた事実が認められる。もつとも、右野田の供述は、同人自身の行動を述べているのみで、加来については直接何も述べていないし、この点につき加来は、「事務所が騒しく、野田にきいたら『たいしたことではない。』旨いわれたので、それ以上くわしくは知らない。」旨(同人・9・17・員、同人・9・23・検)述べ、又、「鄭という人は『歌舞伎苑』ではじめてみた。」旨(同人・9・17・員)述べているから、加来の供述を検討してみると、右野田の供述については、その供述調書の最後の部分に、「これ以上私の立場としていえません。」(同人・員)とあることを考慮する必要があるし、加来は、「野田と飲みに行つたことも、『勇駒』に行つたこともない。」という否定の仕方をしていて(四公調・同人供)、後記の如く、加来の本件についての供述には極めて措信しがたいことが多く、自らの本件に対する関与を全く隠す態度にでていると認められるし、他方、安田の供述は、同人が港会に所属するとはいつても、後記の如く、その内容の他の部分については、他の第三者的地位にある供述者の供述内容ともほぼ一致していて真実を述べていると認められるから、前記引用の供述部分についても、虚偽を述べ又は思いちがいをするなど特別の事情がない限りこれを信用することができると考えられ、右特別の事情は認められないから、この点に関する安田の供述も充分信用することができ、従つて前記加来の供述は信用し難い。次に、被告人今村及び同平井については、右両名は、「仲間から東声会と港会の間に喧嘩があつたことをきいただけ」(今村・9・23・員、四公調・今村供)、又は、「野田等が事務所で騒いでいただけ」(平井・9・21・員)であつて、はじめはくわしい事情を知らなかつた、又各々一人で新宿歌舞伎町を深夜ぶらついていて、途中偶然二人が一緒になり、更に、加来と会い、「歌舞伎苑」に入った、と述べている(今村・9・10・員、四公調・今村供、平井・9・10・員、四公調・平井供)が、ともかく、「歌舞伎苑」に入る前及び同店内において加来と行動を共にしていたのであり、又、後記の如く、本件犯行につき同一行動をとつているのであるから、おそくとも、「歌舞伎苑」内にいるうちに、加来を通じて、「松」での喧嘩と鄭がその際どのようなことをし、東声会がどのように対応したかについて知つたものと推認しうるし、右「歌舞伎苑」の店内で鄭の顔かたちを確認したものと考えるべきである。そして、後記の如く、待ち伏せ的に犯行を行つたのであるから、「『歌舞伎苑』の中で、港会の平原をみてはじめて鄭等も港会のものと思つた。」(今村・9・23・員、四公調・今村供)とか、「夕刊で事件の記事をみて、相手が港会の鄭というものだと知つた。」((平井・9・27・検、平井・10・23・検、四公調・平井供)とかの右両名の各供述は措信し難く、むしろ、平井の「『歌舞伎苑』の内で加来に『あれは誰か』ときいて港会の鄭であると知つた。」旨の供述(同人・9・30・検)の方が信用できるのである。

(2) 「歌舞伎苑」内における被告人今村、同平井及び相被告人加来並びに鄭の言動

安田・員謄、青地・員、伊藤・員によると、鄭ら港会の一行は、当夜他の場所で飲食したのち、たまたま「歌舞伎苑」に立ち寄つたものであることが認められ、又、安田・員謄、安田・検、青地・員、三公調・閔供によれば、被告人今村、同平井及び相被告人加来らは、鄭らが「歌舞伎苑」に入る前、すでに、同店内で飲食していたことが認められるので、結局、被告人ら三名と鄭とが同店で出会うに至つたのは、偶然と考えるほかなく、「鄭らの方が先に入つて来た。」旨の閔の供述(同人・員)はとりえない。

ところで、被告人今村、同平井及び相被告人加来らは、右「歌舞伎苑」の店内で、加来が鄭から悪口をいわれた旨供述しているので、その事実の有無について関係証拠を検討してみると、当夜被告人ら及び鄭と同時に「歌舞伎苑」にいたと認められる者のうち、同店の責任者山田吉男、客であつた川村忠男、鄭と同じ席で飲食していた松山こと閔奉植、その隣のテーブルにいた伊藤義明らは、いずれも一致して、「加来と鄭との間に話し合いがあつたかどうかはわからない。口論や不穏な雰囲気などにも気付かなかつたから、そのような事実はなかつたと思う。」旨供述しており(山田・員、山田・検、川村・員、閔・員、閔・検、三公調・閔供、伊藤・員、伊藤・検)、鄭と同席の安田博は、「鄭と加来とが話をしたことはある。それは鄭が店の奥の便所に行つた帰り加来の横に加来の方を向いて坐つた際のことで、自分も立つていつて加来の前に坐り、更に東声会の木下陸男と思われる男が加来の前にいた。この時すでに今村、平井は外に出ていてその場にはいなかつた。鄭は、自分と加来に、『組は違つていても同じ田舎の者だから、しつかりやれ。』といつた程度で何ら悪口などいつたことはない。」旨述べていて(同人・員謄、同人・検)、青地も、「鄭が加来と話をしていたのは事実であるが、気に障るようなことはいつていないと思う。」旨(同人・検)、閔は、「鄭が席をはずしたことはないが、便所には一、二回行つたと思う。しかしその時他の者と話をしたことには気が付かなかつた。鄭の声は大声だからしやべれば判る。だから話をしたのなら気が付くと思う。」旨(三公調・同人供)、それぞれ供述していて、全員が、鄭と相被告人加来との間に口論があつたことや鄭が相被告人加来に対し悪口を言つたことには気付かなかつたというのである。これら供述者中には、鄭と同じ港会に所属する者もあるが、閔、山田の如く第三者的な地位にあると考えられる者もあるから、特別の事情が窺われない本件にあつては、右の如く全員一致の供述のあることは、これを重視すべきである。

そして、この点についての被告人らの供述は、いわれたという悪口の内容について、今村は、「『いんがな兄貴をもつた。』、『お前も馬鹿だ。』などといつていた。」旨(同人・9・23・員等)、平井は、「『やくな兄貴を持つている。若いのに酒など飲んでいる。』その他何だかんだといつていた。」旨(同人・9・10・員、同人・9・27・検等)、又、加来は、「『いんがな兄貴を持つた。』といわれ、」(同人・9・17・員)、「『哲也、』、『なべ、』と呼び捨てされた。」(同人・10・3・検)旨、それぞれ述べていて、さしたる違いをみせていないものの、鄭が加来に悪口をいつたという時の右両者の位置関係について、今村は、捜査段階では何とも述べておらず、後に、「鄭が畳にななめに坐つたまま、前のめりになるようにして加来と話をし、又、向うをむいたりこちらをむいたりしていた。」旨供述し(四公調・同人供)、平井は、当初、「鄭が座敷の方に坐つたまま悪口をいつた。」旨述べ(同人・9・10・員)、又、「加来が立つてちよつと自分達の席からはなれたところで何かいつていた。顔をあげてみると座敷に坐つて飲んでいた人が加来にむかつて悪口をいつていた。」と述べている(同人・9・21・員)のに、後には、「鄭は柱のようなものに寄りかかつて横に坐りながら加来にいつていた。加来は、体は自分等の方をむき合い、ななめに鄭と話をしていた。」と(四公調・同人供)変つている。そして、加来は、「安田から鄭を紹介してもらつたが、その後、鄭が傍にきて悪口をいい、又元の席に戻つた。」旨の供述(同人・9・17・員、同人・10・3・検)から、「鄭は三、四回も位置を変えている。鄭が横に来たこともある。今村、平井はうしろで聞いていた。」旨の供述(四公調・同人供)に変つていて、被告人ら三名の供述が変化したり、相互にくいちがつている。又、悪口に対する加来の応対についても、今村は、「加来は何をいわれも黙つていた。」(同人・9・10・員、同人・9・16・検)、「加来はにこにこ笑つて返事をしていた。言葉に出して何もいわなかつた。」旨(四公調・同人供)供述し、平井は、「自分達に『頭にきた。』とか『先輩だからしようがない。帰ろう。』とかいつていた。」旨供述し(同人・9・10・員、同人・9・21・員)、後に、「何もいわず合づちみたいに頭を下げていた。相手にならなかつた。」旨述べて(四公調・同人供)いる。しかるに、加来は、「『いんがな兄貴』といわれた時『それはどういうことですか。』ときき返したら、鄭は『いいから、いいから、』と手をふつて戻つていつた。」旨述べ(同人・9・17・員、同人・9・23・検)、又は、このことにつき二人(今村、平井)とその場で話したことはない。『よつぱらつているからしようがないや。』といつたように思うがはつきりしない。」旨いつていて(四公調・同人供)、この点でもくいちがいが著しい。

右の如く、きいたという悪口についての被告人今村、同平井、相被告人加来らの各供述が、変化したり、くいちがつていること、前記の如く、各関係者が一致して悪口や口論があつたことについては知らないと供述していること、しかも被告人らの供述によれば、この時の鄭の声は決して特に小さいといつたものではなかつたのであつて、「大声だつた」旨の供述(今村・9・23・員)もある位であることなどを総合して考えると、被告人らの、鄭が悪口をいつた旨の供述は、全く措信しえず、鄭が被告人らの供述にあるような悪口をいつた事実は、存在しなかつたものと認めるのが相当である。

(3) 「歌舞伎苑」を出てから本件発生までの被告人今村及び同平井の行動、右両名が同店付近のおでん屋に立ち寄つた事実

「歌舞伎苑」から被告人らがどのような順序でいつごろ出たかについては、証拠上極めて明白とはいえない点もあるが、安田・員謄、安田・検、青地・検によれば、被告人今村、同平井及び相被告人加来の三名が、鄭ら港会の者より先に同店を出ていたことは明らかである。そして、証人三宅志郎、同川上よしみの各供述、被告人今村の各供述(同人・9・16・検、同人・9・23・員、同人・9・28・検、同人・10・1・員、四公調・同人供)及び被告人平井の各供述(同人・9・10・員、同人・9・17・検、同人・9・21・員、同人・9・27・員、同人・9・27・検、四公調・同人供)(但し、次に説明する措信し難い部分を除く。)を総合すると、「歌舞伎苑」を出たのちである五日午前四時頃、被告人平井が、同店と道路をへだてた街角の三宅の出しているおでん屋台にやつてきて、しまいかけの同屋台で、いかまき一個を食べていること、被告人今村も、その付近に赴き、「おれにもくれ。」といつていることが認められ、被告人今村及び同平井は、少くとも、鄭らが「歌舞伎苑」を出る相当前に同店を出ていたものと推認される。この時間の関係につき、被告人今村は、「一五分位」と述べ(四公調・同人供)、被告人平井は、「二、三分」といつている(四公調・同人供)が、後者は、次に述べる如く、「歌舞伎苑」で飲食の途中、おでん屋にいつた旨の同被告人の供述が措信しがたいのと同様、信用できないので、前者を信用すべきである。即ち、被告人平井の供述中には、「今村と立小便したのは加来と三人で店を出てきて、加来を送つてからであるが、おでん屋にいつたのは『歌舞伎苑』で飲食している途中のことである。おでん屋でいかまきを食べてから又戻り、そこで鄭の悪口をきいたのである。」旨供述している部分もある(同人・9・17・検、同人・9・27・員、同人・9・27・検、四公調・同人供、同人・六公供)のであるが、他方、おでん屋に寄つた時のことにつき、「今村と一緒」と述べたもの(同人・9・21・員、同人9・27員)、「今村がいたかどうか判然としない。」旨のもの(同人・9・27・検)、更に、「おでんを食べた時は自分一人」と供述したもの(同人・六公供)などあつて、同被告人の供述は変転していて信用し難く、証人三宅志郎及び同川上よしみの各供述によつて認められる被告人平井がおでん屋台に来た前記認定の時間をも併せて考えると、時間と時期の関係についての被告人平井の前記供述は措信できない。なお、被告人今村も、後に、「おでん屋には途中で一度自分一人様子をみに行つたことがある。その後加来に対する悪口をきいたのである。」旨供述している(四公調・同人供)が、これは、被告人平井の供述に影響され、これに合わせようとしたものと解せられ、措信し難い。

(4) 被告人平井が本件発生前、三宅志郎に対し、「港会の者と一番勝負する。」旨いつた事実

被告人平井が、右おでん屋台に寄つた時、おでん屋三宅志郎に対し、「港会の者と一番勝負する。」との趣旨の言葉を発した事実があるか否かについて考えてみると、結局、右事実を否定する被告人平井の供述と、「きようなんか一番勝負とかいつていた。……港会ということもいつていたようだ。」との証人三宅の供述(同人・五公供)のいずれを措信するかに帰するのであるが、右三宅の供述の内容であるこの言葉は、極めて特異であり、作為の余地が少いものと考えられ、実際に聞いたからこそ供述しうるものであること、しかも、同人の前記供述によれば、同人は、事件直後の警察官からの聞き込み(九月五日)を受けた際、すでに同旨の供述をなしているものと認められること、及び同人は極東組に関係しているが、同組は本件では局外者の立場にあると考えられることなどを考慮すると、同人の供述は、極めて信用度の高いものといえる。これに比し、前記及び後記の如く、被告人平井の供述には、措信し難い点が多く、前記の如く、おでん屋台に立ち寄つた時間及び時期的関係、被告人今村がおでん屋台に一緒にいつたのかどうかについても虚偽の事実を述べていて、当夜、おでん屋台付近で友人「かおる」あるいは川上よしみと出会つたことについても、当初これを隠していたものと認められること(同人がこの点について供述した最初は、後記の如く警察に出頭してから、十余日を経た九月二七日であると認められる。)を考えると、結局、当時、被告人平井が、三宅志郎に対して、前記のような言葉を述べたことは、疑いのないところである。もつとも、同被告人は当公判廷(第五回)において、実行行為を否認するに至る前、即ち犯行を自認していた時から右発言については否定しているのである(同人・9・27・員、同人・9・27・検)が、後記(二)、(三)の如く、右発言は、事前共謀の存在と犯行の動機を推認させる有力な資料であるから、同被告人が当初から共謀の事実を否定し、動機について、前記及び後記の如く虚偽の事実を述べていた以上、かかる発言をしたことを否定する態度にでていたことも充分理由のあることであつて、当初より右発言を否定していたことによつて、前記三宅の供述の信用性に消長を来すべきものとは認められない。

(5) 「歌舞伎苑」を出た相被告人加来の行動、同人が本件発生当時被告人今村及び同平井と共に現場にいた事実

相被告人加来がいつ「歌舞伎苑」を出たかについては、証拠上明白でない部分もあるが、安田・員謄等によれば、被告人今村及び同平井が右「歌舞伎苑」を出た後に、鄭より先に同店を出ていることは明らかである。そして、その後の行動について、相被告人加来は、「今村、平井と同時に外に出るとすぐ自分だけタクシーで東声会の新宿事務所に帰り三階でねた。」旨述べ、被告人今村及び同平井も、「加来は先に帰つて現場にはいなかつた。」旨供述しているが、これに反して、本件犯行直後と思われる「九月五日午前四時三〇分頃、『歌舞伎苑』に近い花道通り竹本旅館付近を三人の男が追われて走つていつたが、そのうちの一人は加来と思われる。」旨のおでん屋台の主人日高泰弘の供述があるので、この点につき、各証拠を検討してみることとする。

右日高は、「歌舞伎町のカブキトルコ方向からヤクザ風の三人の男が来て、これを五、六人の男で追つていた。三人のうち最初の二人は自分の屋台のすぐ左先にある竹本旅館の角を曲つて走つて行き、もう一人は真すぐ長岡そば屋のところを右に曲つた。五、六人の男は『追いかけろ。』といつて走つてきた。」旨(同人・9・11・員)、次に、七枚の顔写真の中から相被告人加来、被告人平井及び同今村の各写真を選び出しながら、「加来、平井が最初の二人、今村が後の一人であつた。」旨(同人・9・14・員)、更に、三人について面通しをうけて、「最初の二人のうちの一人、先頭の者が加来であり、後の一人が今村である。最初の二人のうちの残りが平井かどうかは、加来と重つた際蔭になつていたのでその顔をよくみていずはつさりしない。」旨(同人・9・19・員)、それぞれ供述し、当公判廷でも同旨の供述をしている。そして、右目撃状況の認識が間違ないと確言できるのは、「自分は以前駐留軍関係の警備員をしていて、人をつかまえなくても顔だけはよくみておくという習慣がついていたからで、この時も顔をよくみていたからである。」という(同人・9・19・員、同人・9・30・検、同人五公供)のであつて、右日高の供述は、充分措信するに足るものといえる。もつとも、右公判において、相被告人加来から、当夜の同被告人の服装について尋問をうけ、「加来の服装は背広で、色はこげ茶のように思う。」旨証言し、相被告人加来の「自分の当夜の服装はグレーの背広であつた。」旨の主張と色彩の点でくいちがいがあるけれども、相被告人加来が果して当夜その主張する如くグレーの背広を着用していたか否かについては明らかでないうえ、日高は相被告人加来の服装につき、「黒つぽい背広」(同人・9・11・員)、「黒かこげ茶」(同人・9・19・員)とも述べており、他の二人については服の色まではさほどはつきり供述していない(被告人今村につき「黒つぽい背広」((日高・9・11・員))というのみ。)のであつて、前記の如く、日高の主として顔をみていたという供述と、その理由が納得できるものである以上、かかる点でのくいちがいをもつて同人のその他の供述部分を排斥すべきものとすることはできない。なお、相被告人加来や被告人今村、同平井の「加来は先に帰つて現場にいなかつた。」旨の供述内容を検討すると、加来がタクシーで帰つたとの点について、被告人今村は、「加来が店の前でタクシーをとめて『お前達も早く帰れ。』といい別れた。」(同人・9・10・員)、「加来とは店前で別れたので別れてから又店に戻つたのか、それとも帰つたのか、その点どうもはつきりしい。」(同人・9・23・員)、「加来はタクシーで帰つたものと思う。」(同人・9・28・検)、「加来はタクシーを呼んでひろつて帰つた。」(四公調・同人供)、「タクシーを誰がひろつたかは知らない。」(同人八公供)、といつた具合に変化し、被告人平井も、はじめ、「加来は、タクシーをひろつて先に帰つた。」(同人・9・10・員、同人・9・21・員)とのみいつていたのに、後になつて、「車は自分がとめた。」(四公調・同人供)といい出し、相被告人加来は、「今村か平井がとめた車で帰つた。」(同人・9・17・員、同人・9・23・検)というのであるが、相被告人加来がどのようにして帰つたかという比較的単純な事実について、被告人今村及び同平井の供述が変転していることは、このような事実がなかつたことを窺わせるに充分である。又、相被告人加来の「四時すぎに事務所に帰つた。四人位ねていたので自分もねた。七時頃事務所が騒しくなつて目が覚めた。」旨(同人・9・23・検)、「四時すぎで四時半前頃に帰り、事務所の奥の部屋でねた。どの位かわからないが騒々しくなつて目が覚めた。」旨(同人・10・6・員)、「四時から四時半頃の間に帰り、朝明るくなつてガタガタ人が集るまでねていた。」旨(四公調・同人供)の各供述は、野田の「四時頃、三階の入口のドアにかぎをかけて出入口近くのソフアーでねた。若い者三人は奥の寝室でねた。四時一五分頃ドアを足でけつて『開けろ』とどなる者があり、これが中島であつた。中島は『殴り込みだ。若い者を呼べ。』とどなり、事務所は殴り込みにそなえる準備にうつつた。そのうち二十分位の間に若い者が集り、港会の鄭との間に喧嘩のあつたこともわかつて、五時頃から外に様子を見に出ていつた。」旨の供述(同人・員)との明白なくいちがいがあり、事件後加来と会つたという中西八重子の「加来は、電話で待ち合せ場所の相談をした時、『新宿はまずいからだめだ』といつていた。又銀座で会つた時にも『俺はやらないんだがそばにいたからまずいんだ。』といつていた。」旨の供述(同人・員)があり、これに前記日高の供述を総合すると、相被告人加来は、「歌舞伎苑」を出たのち被告人今村及び同平井と共に、本件犯行当時その現場にいて、本件犯行直後、右被告人両名と共に、同時、同方向に逃走したことが明らかであつて、加来が本件犯行前に被告人今村及び同平井と別れ単身タクシーで事務所に帰つたということは、到底これを認めることができない。

(6) 本件犯行の態様

次に、本件犯行の様態について検討すると、判示の如く鄭が「歌舞伎苑」前路上において、その背部に二個の刺傷を負い、このうち左端部のそれを致命傷として、死亡するに至つたことは各証拠によつて明らかなところであり、山田、青地、安田、閔、伊藤の各供述(各人の員(但し、安田については員謄)及び検)により、右各犯行は鄭が右「歌舞伎苑」を出てすぐ行われたことを認めることができる。

ところで、右犯行につき、被告人今村及び同平井は、九月九日警視庁淀橋警察署に出頭して以来第四回公判まで、終始、二人が鄭を刺した犯人である旨の供述を続けていたが、第五回公判に至つて右態度をひるがえし、被告人今村は、「自分が二回刺したもので平井は刺していないと思う。傷口が二ヵ所であるとは法廷で知つたのだが二ヵ所ならいずれも自分が刺したものである。」旨供述し、被告人平井は、「自分はただ今村と共に逃げただけで、刺したことはない。いままで男になりたいため、自分も刺したと嘘をいつていた。」旨供述するに至つた。そこで、以下、本件犯行の直接の実行行為者とその態様について考察する。

(イ) まず、被告人今村が直接の実行行為者であるかどうかについてであるが、自分が刺した旨の同被告人の一貫した供述、同被告人が鄭にぶつかつて刺すのを見た旨の被告人平井のほぼ一貫した供述、被告人今村によつて使用した凶器であるとして警察署への出頭に際して提出されている飛出しナイフ(昭和三九年押第三一号の一)の存在、その凶器に付着した血液反応(10・14・回)、右飛出しナイフにより鄭の背部に存する刺創が出来たとして矛盾はない旨の第二鑑定書、後記の如く被告人今村の犯行後の立寄り先である旅館「みやこ」の手伝い八木やす子の「今村は部屋にかぎをかけていた。」旨の供述などを総合すると、同被告人が直接の犯行実行行為者の一人であり、その用いた凶器は前記飛出しナイフであることが認められる。

(ロ) そこで、被告人今村が鄭の背部を一回刺したのか二回刺したのかについて考えてみると、第二鑑定書には、鄭の背部に存する二つの刺創はいずれも前記(イ)の如く被告人今村が本件犯行の用に供したと認められる飛出しナイフにより出来たものとしても矛盾は生じない旨の記載があるが、これによつては、右の点は、いずれとも決し難い。被告人ら三名は、後記(7)の如く、犯行当日の九月五日夜から同月九日まで本件犯行が原因でホテルの同一室内にあつて共同生活を送り、その間絶えず東声会新宿支部の幹部らとも本件に関して連絡協議したうえ、被告人今村及び同平井の両名が淀橋警察署に出頭するに至つたものであるから、本件について被告人ら相互の間に究分な話し合いがなされたことは容易に推認されるのであつて、被告人今村が従前の自己の供述を変更して、「公判の途中まで傷が二ヵ所とは知らなかつた。平井は事件後も刺したかどうかについてあいまいな返事しかしなかつたので二人で出頭することにした。ホテルではほとんど事件のことを話し合わなかつた。」旨(同人・七公供)供述しているのは、全く不合理なことで措信できないし、被告人平井の「男になりたかつたから嘘をいつていた。」というのも、単にそれのみでは理解しがたい弁解というほかはない。即ち、三日余の話し合いと連絡協議を経て、被告人平井が同今村と共に自発的に(捜査官憲との関係においてであつて、東声会の内部でのことではない。)出頭している事実から考えると、それは、被告人平井が自らも実行行為者として犯行に加功したためであるか、あるいは、身代り等何らかの動機が存したためであろうと推測するのが当然であり、単に、被告人今村一人が刺して自分が何もしなかつたというのでは恥しいとか、男になりたいとかいうことで、これを説明することはできない。更に、被告人今村の「自分ははじめから捜査官に対し『自分が二回刺した。』旨いつていたがとりあげてくれず、一回と供述をかえた。」旨の供述(同人・七公供)は、同被告人が当初から(但し、九月九日付弁解録取書には同被告人の刺した回数についての供述はなく、同人・9・10・員以後の供述である。)取調官に対し一回刺した旨供述している同被告人の各供述調書、取調官として同被告人のその旨の供述を録取した証人土田勝男、同石塚貞雄の各供述、被告人今村の当公判廷における証人土田に対する尋問の内容及び態度等からみて、措信し難いものであり、後述する如く、くり小刀が本件凶器の一つと認められることをも併せ考えると、被告人今村が一人で二回刺したと認めることはできず、同被告人の刺した回数は一回であると認めるのが相当である。なお、相被告人加来は、「今村は自分に『自分は二回刺した。』旨いつていた。」と述べ(同人・10・6・員、四公調・同人供)、被告人今村の友人近藤元也も、「事件直後の五日朝、訪ねてきた今村は、『このナイフで二回刺してやつた。』旨いつていた。」と供述(同人・員)している。前者については、被告人今村自身が「二回と加来にいつたことはない。」旨前記供述変更後も述べていて(四公調・同人供、同人・七公供)、被告人今村や相被告人加来の供述には極めて矛盾に満ちた措信し難いものが多いから特に問題にする必要もないと考えるが、後者については、近藤の供述が第三者の供述として一応信用しうるものと考えられるだけに、検討の必要がある。しかし右被告人今村のいつたとされる言葉は、事件直後で被告人平井や相被告人加来との話し合い、打ち合せ以前のものであつて、しかも親しい友人に対するものであるから、興奮、誇張等があるものと考えられ、仮に被告人今村がそのようにいつたとしてもそのことをもつて真に同被告人が二回刺したのではないかと疑わしめ、前記認定を左右する程度に有力なものとはいえない。

(ハ) 凶器について検討してみると、証拠上その存在が明白なものは、被告人今村が自ら使用したとして提出した飛出しナイフ一丁(昭和三九年押第三一号の一)及び九月五日朝被告人平井が立ち寄つたと認められる同被告人の友人堀江稔の住込先東京都新宿区河田町の薩摩工営株式会社の飯場屋根裏から発見されたくり小刀一丁(同号の二)であつて、被告人平井は、当初右くり小刀を自分が使用した旨述べ、前記犯行否認後には、くり小刀は自分のものだが全く本件には使用していない旨供述を変更している。飛出しナイフが被告人今村によつて凶器として使用されたものと認められることは前記(イ)の如くであるが、くり小刀については、これに血液反応が認められなかつたこと(10・10・回・参照)、堀江・員によると、被告人平井は、堀江に対し、「これ(くり小刀)は友達からあづかつたもので明日返すことになつてつている。もう一つ登山ナイフを持つていたが逃げる時落してしまつた。」旨述べていることが認められること等から、他に隠された凶器が存在するのではないかとの疑いが生ずるのである。しかし、又、堀江・員によれば、被告人平井は堀江に対して、同人の部屋から一人で廊下に出て戻つてきてから、右くり小刀をみせながら、「血がついたから洗つてきた。」旨述べていることが認められる。もつとも、この点につき、被告人平井は、右の如く堀江にいつた事実を認めながら、「実際には洗つたことはない。何故堀江にそんな嘘をいつたのかは自分でもわからない。」旨(同人・六公供、同人・一〇公供)述べるのであるが、この被告人平井の供述は不自然であつて、右供述と共に、「堀江にナイフ(くり小刀)はみせたが友達のものとはいつていない。別のものを持つていて落した、ともいつていない。」旨の供述(同人・六公供)と供に措信し難い。右の如く、くり小刀につき、被告人平井が堀江に対し、「血がついていたから洗つてきた。」旨いつた事実、堀江があずかつて隠してやつたか(平井・9・29・員)、被告人平井が自分で隠したのか(堀江・員)はともかく、くり小刀が大切に隠されていて、同被告人は出頭の時もこれを持参せず、「凶器は落した。」旨供述(同人・9・17・検、同人・9・27・検)していた事実と考え併せると、やはり、右くり小刀は、本件事件の凶器として用いられたものであつて、被告人平井が前記供述変更前に追べていた如く(同人・10・19・員、四公調・同人供)、くり小刀についた血はハンケチでぬぐつたのち堀江方で洗つて雑巾でふいたものと認めるのが相当であり、くり小刀に血液反応がない点についても、証人斎藤銀次郎の供述によれば、「刃についた血でも洗つて流されてしまえば反応が陰性になることがある。」ことが認められるから、右認定と矛盾するものではないし、更に、第二鑑定書の鑑定結果を併せ考えると、結局、鄭の背部に存する二つの刺創のうち、左端部のそれは被告人今村により前記飛出しナイフで作られたもの、中央部のそれは前記くり小刀によるもの、と認められるのである。

(ニ) 次に、右くり小刀を使用して鄭を刺した者が、検察官主張の如く、被告人平井であるかどうかについて考えてみることとする。この点について、従前の供述を変更した被告人今村及び同平井の第五回公判以降の各供述が措信しえないことは、前記の如くであるが、右供述変更前の被告人平井の第四回公判までの供述の経過を検討してみると、同被告人の鄭を刺したことについての供述は、「右手で背中の下を刺した。」旨(同人・9・10・員、同人・9・17・検)、「背中あたりを刺した。どちらの手で刺したのかは夢中であつたので今でも思い出せないが平素右ききであるから右手で刺したと思う。」旨(同人・9・21員)、「どの辺かわからない。大体体の上の方と思う。夢中だつたのでよくわからないが、自分のきき腕は右手だから右手と思う。」旨(四公調・同人供)それぞれ供述していて、自ら刺した者の供述としては、あいまいで不自然であるほか、凶器であるくり小刀につき、前記のように、「友達からのあずかりもの」と供述していたこと、同被告人が警察署に出頭した際にも、このくり小刀を持参せず落したといつて隠していたこと(これは、被告人今村が自ら飛出しナイフを持参して出頭し、これを取調官に提示しているのとくらべると、注目すべき点であつて、くり小刀を被告人平井が、自分以外の者のために隠していたのではないかと推測する余地があるのである。)、相被告人加来は、前記(5)において説明した如く、本件犯行当時、被告人今村及び同平井と共にその現場にいて、犯行直後右被告人両名と同時、同方向に逃走したものと認められるのに、被告人ら三名は、挙つてこの事実を隠している状況にあること等の諸事情を認めることができるのであつて、これらの諸事情を総合すると、被告人平井が前記くり小刀を用いて鄭の背部を刺したことについては、多少疑問が生じ、相被告人加来が刺し、被告人平井が加来の身代りとして警察署に出頭したのではないかとの疑いも存するのであつて、結局、被告人平井が刺したものと断定し、あるいは、相被告人加来が刺したものと断定することもできない。しかし、くり小刀をもつて鄭を刺した者が被告人平井であるか相被告人加来であるかを確定できないとしても、次に説明する理由によつて、被告人平井は、その刑事責任を免れることはできない。即ち、前記の如く、被告人今村が一人で二回刺したということがないものと認められ、他方、被告人今村、同平井、相被告人加来の三名以外の者が本件現場において鄭を刺した疑いが全くないものと認められるのであるから、後記(三)において説明する如く、右三名の共謀が認められる本件においては、判示の如く、被告人平井又は相被告人加来のいずれかが前記くり小刀で一回刺したものとの択一的認定が可能であるし、又、それをもつて、被告人平井に刑事責任を負わせるに足りるものと解すべきである。なお、被告人今村の刺した行為と、同平井又は相被告人加来のいずれかが刺した行為との順序については、被害者鄭の受けた傷跡に残つた凶器の刃の方向、逃走目撃者の供述等を考慮しても、明確な認定ができず、ただほとんど同時に二つの刺傷行為が行われたことが認められるにとどまる。

(7) 被告人ら三名の現場逃走後の行動

被告人ら三名の現場逃走後の行動については断片的ではあるが、

(イ) 近藤元也・員、大野恵美子・員、八木すえ・員、八木やす子・員、今村・9・23・員、今村・10・1・員を総合すれば、被告人今村は、五日早朝東京都小平市に同郷の友人近藤らをたずね、更に、関東バス青梅街道営業所で友人大野と会つたのち、同都練馬区下石神井町旅館「みやこ」にて休息して、ここで電話で相被告人加来と連絡のうえ、夕方同被告人及び被告人平井に迎えられて同旅館を去つていることが認められる。

(ロ) 堀江・員、平井・10・19・員によれば、被告人平井は五日早朝前記堀江方をたずね、同人の部屋等でねたうえ、昼すぎ頃ここを去つたが、この間相被告人加来との間に連絡がとられていることが認められる。

(ハ) そして、高野長美・員、飯野利三郎・員、証人土田勝男、同石塚貞雄の各供述、平井・9・23・員、今村・10・2・員、加来・10・3・検等を総合すると、相被告人加来は、被告人今村及び同平井と連絡のうえ、あらかじめ岡田なる仮名で部屋を予約しておいた判示「ホテル日航」に五日午後九時頃右被告人両名を連れてあらわれ、以後九日夕方まで、右被告人両名と共に、右ホテル三〇一号室に宿泊滞在したが、この間の、宿泊代金等(計約二五、〇〇〇円)は総て相被告人加来が負担したこと、宿泊滞在中、被告人ら三名は、電話で外部と連絡し、又、東声会会員木下陸男らが三名のところに出入りしていたこと、九日午後七時頃、被告人今村及び同平井は、東声会蒲田支部の沖田某及び同会新宿支部の渡辺福三郎に連れられて、あらかじめ右沖田より警視庁淀橋警察署に連絡したうえ、待ち合せ場所たる渋谷駅付近の喫茶店で、同警察署員と出会い、同警察署員と共に同警察署に出頭し、自分達二人が鄭を刺した旨供述したこと(但し、被告人今村及び同平井の供述がその後変更されたことは前記のとおりである。)、がそれぞれ認められる。

(二)  本件犯行の動機

本件犯行の動機として、被告人今村は(第四回公判までの被告人平井も)、犯行の当夜「歌舞伎苑」内で被害者鄭が相被告人加来に対し悪口をいい、更に、鄭が同店を出た際、被告人今村及び同平井をみて嘲笑したので、これらに憤慨し、こらしめるため犯行に及んだ旨供述している。しかしながら、前記(一)(2)で説明したように、鄭が悪口をいつた事実は認められないし、又店外での嘲笑についても、この点に関する被告人今村及び同平井の各供述は右店内での悪口についての供述と密接に関連するものであつてこれまた容易に措信し難いうえ、犯行が後記(三)の如く待ち伏せの態様を示していること、閔・員、三公調・閔供、下田・員により被害者鄭が受傷直後から、「犯人が誰か原因が何か思い当るものがない。」旨述べていたと認められること等を考え併せると、被告人等が強調するような事情が存在し、そのため本件犯行が行われたものとは、到底考えられないのであつて、かえつて、かかる被告人らの供述態度からは、被告人らが何らかの犯行の動機を故意に隠しているものであることが窺われるのである。

そこで、真の動機について考えてみると、右のように被告人らがこれを隠している以上、直接の証拠として明白なものはないが、証人土田の供述、下田・員、平井・9・30・検等によれば、従来から東声会と港会とが対立関係にあつたことが充分認められ、被告人平井が犯行直前「港会の者と一番勝負する。」旨いつていたことも、本件犯行が単なる個人的感情に基因するものではなくて、東声会と港会の対立によるものであることを示す一資料である。しかも、犯行が港会の中でも特に鄭をねらつて適確に行われていること、前記(一)(1)の如く相被告人加来及び少くとも同相被告人を通じて被告人今村及び同平井も、バー「松」での出来事とその後の経過を知つていたと認められること、しかるに被告人らはこれを否定し、無関係な動機として個人的偶発的なものをあげていること、相被告人加来は、前記(一)(5)のとおり本件犯行現場にいて被告人今村及び同平井と共に逃走したにかかわらず、自己は無関係であるとしてこれを否定していること等を総合してみると、本件犯行は、東声会と港会という組織と組織の対立感情を遠因とし、直接の動機は、判示の如く、被告人らが鄭を「歌舞伎苑」で認めた際、先のバー「松」での喧嘩を仲裁してとりおさめた鄭の行為に対し、その仲裁が片手落な仕方であつたとして、憤慨と憎悪の気持を新たにしたところにあつたものと認めるのが相当である。もつとも閔・検、山田・検によると、「歌舞伎苑」内では、東声会の中島と鄭とは仲良く飲んでいて中島が「話がついてよかつた。」などといつていたことが認められ、又安田の「『その』での東声会の者と鄭らとの話し合いは笑いながら行われ短時間で終つた。」旨の供述(同人・検)と併せ考えると、「松」での出来事については東声会、港会の幹部間に一応の話し合いが行われていたことが窺われるのであるが、それは、あくまで幹部間のしかも一応のものであり(例えば伊藤・員、伊藤・検によると、鄭は「歌舞伎苑」内で原田こと金鐘信に対し、「あしたちやんとしておけ。」といつていたことが認められ、右事実は、話し合いの結着は、「あした」以後に持ちこされていたことを窺わせるものである。)、被告人らが若い衆として、飲酒の勢いも加わつて、かかる犯行を行うに至つたものとの前記認定に影響を与えるものではない。

(三)  被告人今村、同平井及び相被告人加来の共謀

被告人今村、同平井及び相被告人加来の三名の間に、本件犯行前本件についての共謀が成立していたかどうかについて検討する。判示冒頭で認定した如く、被告人らはいずれも、いわゆる愚連隊の組織である東声会の新宿支部に所属し、加来は兄貴分として被告人今村及び同平井の面倒をみたり、同人らを連れ歩いたりして、特別の親密な関係にあつたこと、従つて被告人ら三名間においては、意思の疎通が充分であると考えられること、被告人ら三名が本件犯行前「歌舞伎苑」内において飲食し、本件犯行の直前に、前記(一)(4)の如く、被告人平井が、「港会の者と一番勝負する。」旨述べていること、右被告人ら三名が前記(一)(3)、(5)において認定の如く、鄭より先に「歌舞伎苑」を出て、さしたる用事もないのに深夜本件犯行現場付近に残つていて、鄭が出てくるとすぐ、しかも、適確にこれを刺していて、犯行が待ち伏せたうえでの不意打という形態をとっていること、更に、前記(一)(5)の如く、犯行後被告人ら三名ですぐ同時、同方向に逃走していること等の諸事実を総合すれば、本件犯行前に被告人ら三名間に本件犯行についての共謀が成立したことは、充分これを推認しうるところである。そして前記(一)(2)の如く、被告人らと鄭との出合いは偶然であつたと認めるほかはないのであるから、右共謀は、「歌舞伎苑」内において行われたもので、その内容は、少くとも当夜「歌舞伎苑」前で鄭の出てくるのを待ち構え、同人の隙をみて被告人今村所携の本件飛出しナイフ等を使用して、鄭の身体に対し危害を加えることにあつたものと認めるのが相当である。

(四)  殺意

本件被告人らの動機、犯行態様が前記の如きものと認められる場合、被告人らに殺人の共謀があつたか、又は、鄭を刺す際の被告人今村及び同平井もしくは相被告人加来において殺意が認められるか、の点について検討してみることとする。本件においては、捜査及び公判を通じ、被告人らの殺意を直接に認定するに足りる資料は存しない。従つて、間接証拠によつてこれを認定し得るかどうかについて考察すると、本件の凶器は、刃の長さ一〇・二糎の片刃飛出しナイフと、刃渡り一二・三五糎の片刃くり小刀であつて、鋭利ではあるが太刀、銃の如く、凶器自体から直ちに殺意の存在を推定させる程のものではなく、又、刺した身体の部位も背部であるから、直接胸腹部、頸部等を突き刺す場合と異なり、その部位自体から殺意の存在を推定させるものともいえないのであつて、かかる凶器でかかる部位を刺したことをもつて、直ちに殺意を認定することはできない。もつとも、検察官の主張するように、前記(一)(4)の如く、被告人平井が、「港会の者と一番勝負をする。」旨発言したことが認められること、不意打的に二人で二回刺していること等から、少くとも未必の殺意があつたのではないかとの疑いがないではないが、動機として認定しうるものが前記(二)の如きものであるうえ、共謀の内容についても前記(三)程度の認定にとどまること、港会の若い衆と行動を共にしていた鄭の殺害を企図したというには、犯行の時期的場所的選択及び情況判断が粗雑、幼稚なこと、近藤・員によると、被告人今村が犯行直後近藤と会つた時、「刺された奴は死んだのか。」との問に、「死にやしない。」と答えたことが認められること、犯行結果の傷についても、春山正臣医師の証言及び同人作成の診断書によれば、直ちに死が予想される如きものとは認められないこと等の諸事情を総合してみると、いまだ確定的にはもとより、未必的にも殺意を認定することができないのである。従つて、本件においては、判示の如く、結局、被告人今村及び同平井は、相被告人加来と共謀のうえ、傷害の意思で本件犯行に及び、致死の結果を生ぜしめたものと認めるのが相当である。

(五)  被告人今村及び同平井の自首と被告人加来の罪責

被告人今村及び同平井の自首の成否につき考えてみると、犯行後の右被告人両名の行動は、前記(一)(7)の如くである。刑法第四二条にいう自首については、犯罪事実が発覚していてもその犯人が誰であるか認知されていない場合にも成立するものと解せられるから、本件にあつて前記被告人両名の自発的出頭以前に、捜査官憲において鄭に対する犯罪の発生のみならず、その犯人をも知つていたかどうかを検討してみると、証人土田勝男及び同石塚貞雄の各供述、三宅・9・5・員その他各証拠を総合すると、本件発生直後捜査官において現場付近の関係者の供述を求めた結果、犯人らが東声会新宿支部の若い者であることが判明し、又、三宅志郎が、「この辺でみかけない、見たところ二二、三才の一米六七、八糎の角顔で顔色は黒い方で肌が汚くニキビがあり、黒つぽい上衣と同じようなズボンをはいた男が、港会の奴と一番勝負するとかいつていた。」旨供述したところから、右の如き風体の男が犯人の一人であろうと推測していたが、東声会新宿支部事務所に対しては、単に聞き込みを行つた程度で、更に、同会蒲田支部の沖田からも、「確かに犯人は東声会の新宿支部のものである。」旨知らされたものの、前記の如く、被告人今村及び同平井の両名の出頭連絡があるまで、それ以上の犯人の特定ができず、かねて被告人平井らを見知つていた捜査官においても、前記三宅の供述のみからは同被告人を思いうかべることができなかつたとの事実が認められる。そして、かかる程度では、いまだ犯人を認知しえたものとはいえないものというべきであるから、被告人今村及び同平井の両名については、刑の任意減軽事由たる自首が成立するものといえる。但し、当裁判所としては、右自首をもつて特に右被告人両名の処断刑を減軽すべきものとは考えないので、量刑上の事情として考慮するにとどめる。

なお、被告人今村及び同平井に対し、特に被疑者としての捜査が開始されていなかつたことは前述の如くであるから、被告人加来は、起訴状記載の如く、捜査中の者を蔵匿したものとはいえない。しかし、犯人蔵匿罪は、本犯が真犯人である場合には、捜査開始の前後を問わず成立するものと解せられるのであつて、被告人加来は、前示の如く、鄭に対する傷害罪の真犯人である相被告人今村及ど同平井の両名を、これを知りながら蔵匿したものと認められるから、この点で、犯人蔵匿の罪責を免れえないものである。もつとも、被告人加来と相被告人今村、同平井との間に、前示の如く、本犯たる本件犯行についての共犯関係が認められる場合にも、なお、右犯罪が成立するかという問題があるが、被告人加来の行為が、単に自ら隠れるという程度をこえて、共犯者を「隠す」行為であると認められ、被告人今村及び同平井の両名の行為が自ら隠れるのではなくて、隠してもらうものと認められる以上、犯人蔵匿罪の成立に影響はないものと解するのが相当である。

(累犯前科)

被告人加来哲也は、(1)昭和三五年五月一二日福岡地方裁判所で傷害罪により懲役四月(三年間保護観察付執行猶予、(2)の裁判を受けたため同三七年二月八日右猶予取消)に処せられ、(2)昭和三六年一一月二五日福岡地方裁判所において麻薬取締法違反により懲役八月に処せられ、右(2)及び(1)の順序で、(2)は同三七年六月二八日、(1)は同三七年九月二八日、右各刑の執行を受け終つたものであつて、右事実は、第四回公判調書中同被告人の供述記載及び前科調書によつてこれを認める。

(法令の適用)

被告人今村紀男及び同平井征次の判示第一の所為は、刑法第二〇五条第一項・第六〇条に該当し、被告人加来哲也の判示第二の所為は、相被告人今村及び同平井につき各同法第一〇三条・罰金等臨時措置法第三条第一項第一号に該当するが、右犯人蔵匿罪は一個の行為にして二個の罪名に触れる場合であるから、刑法第五四条第一項前段・第一〇条により一罪として犯情の重い右今村に対する犯人蔵匿罪の刑に従い、同被告人につき所定刑中懲役刑を選択し、同被告人には、前記の前科があるので、同法第五六条第一項・第五七条により再犯の加重をし、各被告人につき、各その所定刑期の範囲で犯情を考慮したうえ、被告人今村を懲役七年に、被告人平井は少年であるから少年法第五二条第一項本文・第二項に従い、同被告人を懲役三年以上五年以下に、被告人加来を懲役一年に、それぞれ処することとし、刑法第二一条を適用して未決勾留日数のうち被告人今村及び同平井に対し、それぞれ二八〇日を、被告人加来に対し五〇日を、各右本刑に算入することとし、押収してある飛出しナイフ一丁(昭和三九年押第三一号の一)は、判示第一の傷害致死の犯行の用に供した物であつて、犯人以外の者に属しないから、同法第一九条第一項第二号・第二項を適用して、これを被告人今村から没収し、訴訟費用については、刑事訴訟法第一八一条第一項本文・第一八二条により、被告人今村及び同平井の連帯負担とすることとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 真野英一 裁判官 太田浩 裁判官 堀内信明)

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